1555年、ノストラダムスが南フランスにおいて大予言の書を出版した頃、同じ時期に彼は『化粧品とジャム論』という本を出版しています。
50代前半の彼は、まだ予言者として本格的に活動したのは5年くらいで、圧倒的に医者としてのキャリアの方が長く、当時「薬」としても注目されていた「砂糖」を使ったレシピ本として『ジャム論』を書いたのです。
『化粧品』も飲み薬のレシピで、美容に聞く薬や長寿になる薬などと共に、医者としてペスト治療を長らく続けてきた経験からの処方箋などが書かれているようです。

 そうなのです。

 ノストラダムスは医者であり、南フランスを中心にペスト治療を中心的な活動として放浪していました。そして、ようやく50歳近くになり1547年南フランスのサロンという町に永住することを決め、執筆活動を始めたのです。その執筆活動の方向性が「予言書」と「医師としての本」だったのです。 結果的には「医師としての本」よりも「予言書」の方向性がヒットし、現代まで予言者としてのイメージが定着したのです。
 ただ「医師としての本」は歴史的には重要な歴史の流れと重なり、今でも「料理の歴史」ではノストラダムスの『化粧品とジャム論』は取り上げられることがあります。 特に『化粧品とジャム論』は、イタリア人の執筆者がフランス語で初めて出版した「砂糖を使ったレシピ本」を、フランス人であるノストラダムスが参考にして書いたため、イタリアルネサンスがフランス料理に影響を及ぼした転換期と重なるという訳なのです。
 では『化粧品とジャム論』で書かれたイタリアルネサンスの影響とはなんだったのでしょうか?

 それは「砂糖」を使った料理です。

 それでは何回かに分けて、イタリアルネサンスと「砂糖」を使った料理について書いていきたいと思います。この砂糖の流れはイタリア料理の基礎を使った一翼にもなっているため、イタリア料理の理解に繋がって頂けたら幸いです。

■ノストラダムス■

1503年に南フランスのプロヴァンス地方で生まれる。

 父親は祖父の代まではユダヤ人の系譜でユダヤ教だったが、カトリック教に改宗している。父親は貿易商で、曾祖父が諸国の王の侍医である程度有名であったらしいがノストラダムスが1歳くらいの時には亡くなっている。ユダヤ教はカトリックの影響を受けにくかったため、従来の医学に捉われない(ガレノスの胆汁説や瀉血法など)医術を学んだなどの伝説があるが、実際のところは不明のようだ。

1520年アヴィニョンの大学に法律を学びに行くが、ペストの流行で大学が一時閉鎖し、ノストラダムスは放浪する。この時期にモンペリエ大学で医学を学んだとも言われるが不明。

 その後、ボルドーあたりまでペストの治療をしに行ったなど言われた後、1529年モンペリエ大学に入学し医師免許を取るが、あまり順調ではなかったようだ(因みにモンペリエ大学の卒業生に医者になりつつも、著名な占星術師になった人もおり、医学と占星術は当時は近いものだったのかもしれない)。 

 その後、エラスムスとラテン語に関する議論をしたことがある哲学者スカリジェと招聘を受けてアジャンに移り住む(なぜスカリジェが招聘したのかは不明)。開業し、結婚し2人の子供が生まれるが、1536年妻と子供は亡くなっている(ペストとも)。 その後、南フランスでペストが再び大流行し、ノストラダムスは勇猛果敢に流行地に乗り込んで治療を行う。伝説では従来の医術と違う方法でたちまち奇跡の治療を行ったなど言われるが、カトリックでありガレノスの説を信じていたノストラダムスは当時の治療法のような治療法を踏襲していたと思われる(カラスの口が付いたようなマスクを被り、瀉血法などを用いたりなど)。ただ彼自身がペストにならなかったのは驚くところ。 

 1547年、多くの移動してきたノストラダムスだが、サロンを永住の地として決め、再婚する。更に、医師のかたわら執筆活動を始める。 また新婚旅行を兼ねてか、イタリアを旅行する。この時に、製糖に関する技術や書物などを手に入れたようである。また、シチリアで若い修道士に会い、将来教皇になると予言し、実際シクトゥス8世になったという伝説もある。 

 1550年、この頃から1年間の予言をした本を毎年出し始める。これが話題になり、1556年カトリーヌドメディシス王妃とアンリ2世に呼ばれ、アンリ2世の死を予言したとか。 

1555年、『諸世紀』という予言書を出版(但しこの本は今でこそナポレオンやヒトラーの事を予言したとされているが当時はあまり注目を浴びなかったらしい)。また『化粧品とジャム論』を出版。 

 1557年『ガレノス釈講』というガレノスの著者をノストラダムスなりに翻訳した本を出版。この本を書いているように、ガレノスは従来の医学を踏襲している。 

 1564年カトリーヌドメディシス王妃がシャルル9世を連れてフランス国内を巡行した際、サロンの街にも立ち寄りノストラダムスが謁見。それが切っ掛けで「王室の侍医」という名目上の称号をもらう(実際には宮廷で侍医をしていた訳ではない)。このとき巡行に随伴していた少年をフランス王になると予言しアンリ4世に実際なったという伝説もある。 また占星術師としての名声を上げて、皇帝になる前のルドルフ2世の依頼でホロスコープも作っている。ただ、ノストラダムスは星で占ったのではなく、予言の立証として星を使ったとも。

1566年亡くなる。

■ノストラダムスの『化粧品とジャム論』■

 イタリアではヴェネツィアがヨーロッパの香辛料貿易を独占した時代から砂糖を得やすい環境にいて、更にシチリアではサトウキビの栽培も始まり、砂糖を使った文化が発達してた。しかし、ポルトガルが15世紀前半からカナリア諸島周辺を開拓しサトウキビの栽培を始めたことや、1493年コロンブスがアメリカ大陸を発見しそこでサトウキビの栽培を始めたことなどから、砂糖がイタリア以外のルートからも大量に手に入るようになり、「砂糖」を使ったノウハウがヨーロッパ諸国で欲せられる。

 そのノウハウとして、砂糖を使った果物を中心とするイタリアの調理法のレシピを紹介したのが『化粧品とジャム論』の特に『ジャム論』の方である。特に、南フランスのプロバンス地方は果物が多く取れるものの気温が高いため保存ができなかったため、砂糖を使った保存方法は渇望されていた。

 「ジャム」といっても、ピールやブリザード・マジパン・ゼリーなど砂糖を使った様々な調理方法を紹介している。また、砂糖は流通したとはいえ上流階級の食材のため、砂糖と使った料理で王様をもてなす方法なども書いている。

 またノストラダムスは医者として砂糖は「薬」になるという当時の主流の考えを踏襲していて、特に分量を考えて処方すれば「消化」を中心に体に良いという考えの持ち主でもあった。その考えはカトリックで支持されていた考えでもあり、この辺りもカトリックのカトリーヌドメディシス王妃がノストラダムスを評価した一因であるのかもしれない(カトリーヌドメディシス王妃自身もイタリアのメディチ家出身で、結婚しフランスに渡る際菓子職人を連れてきている)。

 ただそれが当時「医学界のルター」とも言われるプロテスタントが多いパラゲルスス派の強い批判に合うことにある。パラゲルスス派は砂糖が消化不良など悪い影響を起こすと唱えていた。当時はカトリックとプロテスタントは非常に激しい争いもしていたため、パラゲルススは反体制的な評価を受けていたが、化学史の観点から見ると個人の体質によって論じるガレヌスの説から脱却し、物質の化学的構成要素によって人体に作用を及ぼすとした考え方は、近代化学への道のりに貢献したと評価されている。

※参考文献『予言者で奇跡の医者 ノストラダムス』飛鳥昭雄1994.12.5講談社『美食の歴史』アントニー・ローリー1996.5.1創元社日本語版・英語版・イタリア語版WikipediaPosted in 16世紀イタリアフランスTagged イタリア料理ノストラダムスノストラダムスとイタリア料理ルネサンスルネサンスのイタリア料理砂糖化粧品とジャム論料理

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